能は枯れ木になっても舞台で演ずる 評価する裸の王様達

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能の演目に「隅田川」がある。
名演目なので歌舞伎、人形浄瑠璃にも物語が演じられている。
月曜日、浅草に用事があり、時間があったので、「隅田川」の故事に関係する
木母寺と梅若塚を訪ねた。
写真は梅若塚だ。

日曜日NHKのFM放送で、この隅田川の能の謡い部分である謡曲
大槻文蔵が演じていた。
大槻文蔵は70歳前後。
関西能楽界で重鎮と言われている。
しかし、しゃがれ声で、美しくない。
若い頃からお世辞にも声が良いとは言えない。
まして、15日の放送では声が枯れきっていた。
それでも門弟は疑いもなく、わびさびの世界をよくぞ演じてると、大賛辞。

しかし、何処の世界で、しゃがれ声で観客からお金を取れるとおもうのだろうか。

能楽界は不思議な世界だ。
30歳代から40歳代に掛けて、花開く芸事の世界。
能の世界では「若造」だ。
能は興行的に生きていけないので定年延長で門弟をとる。
器楽奏者、オペラ、舞台芸術家は演奏家として収入を得る。
レッスン料、門下生の月謝の収入を当てにするのがプロだろうか。
ここにスポットを当て、能をもっともっと素晴らしい芸術に高めなければならない。

能だけは、枯れきった花を生け花として使うようだ。

演者も観客も「裸の王様」。
悪声、年寄りは指導者として頑張るほか無い。
舞台に出てはならない。

さて、「隅田川」だが。物語の内容は。


平安の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房(これふさ)と

美濃国野上の長者の一人娘の花御前がという夫婦がいた。
二人には子供がなく、日吉宮へお祈りに行った。
すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのだ。

梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり、

梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられた。
梅若丸は三塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供だった。
その賢さが災いしたのか、比叡山では東門院の子若松と稚児くらべにあい、
東門院の法師達に襲われる。

梅若丸は山中に迷い、大津浜へと逃れる。

そこで信夫藤太(しのぶのとうた)という人買いに連れ去られ、
東国へと向かう。
旅の途中病にかかってしまった梅若丸は、
貞元元年の3月15日、隅田川の湖畔で
「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」
との句を残し、12歳という若さで命を落としてしまう。

ここからが能のストーリー。


武蔵の国、隅田川のほとりで渡し守が客を待っていると、
人買いにさらわれた我が子を求めて、
はるばる京都から東国まで旅してきたという物狂いの女が現われる。
渡し守に「面白く舞い狂わなければ舟に乗せない」と言われた女は、
伊勢物語』の在原業平(ありわらのなりひら)の歌
「名にしおはばいざ言問(ことと)はむみやこどり…」を引いて、
「業平が都の妻を思うのも、私が東国の子を尋ねるのも、思いは同じ」と
乗船を乞い、許される。


その船上で渡し守は、ちょうど1年前の今日、
人買いに捨てられこの地で死んだ少年の物語を聞かせる。
舟が対岸に着くまでの世間話が、女にとっては残酷な報せになった。
まさしくその少年こそ、女が捜し求める子、梅若丸だったのだ。


思いがけない形で我が子の死を知り泣き伏す母を、
渡し守は、少年の眠る塚へと案内する。
人々と共に母が念仏を唱えると塚の中から我が子の声が聞こえ、
いとしい我が子の霊が姿が現われる。
それも束の間、駆け寄る母の手から、子は幻と消え、
跡にはただ草ぼうぼうの塚だけが残った。