敦盛は年端もない若武者だった

今度の土曜日21日に、大学のクラブOB会が開催される。
OB会は、長年続けられていたが、我々団塊の世代が参加するようになって
一気に盛会となった。
そのため、謡曲を楽しむには演目を増やし、配役を割り振る。
しかし1演目全部を謡うわけにもいかず、主催者は苦労する。
今度の配役は「敦盛」のワキだ。
世阿弥作とされる。
一の谷の合戦で年端も行かない平敦盛を討ち取った、熊谷次郎直実は、
あまりの痛ましさに無常を感じ、出家して蓮生(れんしょう・れんせい)と名乗った。

そして、連生は敦盛の菩提を弔うために一の谷を訪れた。
連生が、一ノ谷で回想にふけっていると
笛の音と共に草刈り男達が現れる。

蓮生が、話しかけると、中のひとりが笛にまつわる話をし
そのうちの一人が、
自分は敦盛に縁のある者で、十念(じゅうねん)を授けて欲しい」と言う。
十念とは「南無阿弥陀仏」と十回唱えることだそうだ。

蓮生が経をあげると、男は、敦盛の化身であることをほのめかして姿を消す。
その晩、蓮生が敦盛の菩提を弔っていると、その霊が往時の姿で現れる。

敦盛は、自分を弔う蓮生は、以前は敵でも今は真の友であると喜び、
懺悔の物語を始める。

能の山場である。
寿永二年〔1183年〕の秋の都落ち
須磨の浦での侘び住まい、
平家一門の衰勢を語り、
最期を迎える前夜の陣内での酒宴のさまを想起して舞を舞う。

そして、一の谷で、舟に乗ろうと波打際まで進んだところで、
熊谷次郎直実に呼び止められて一騎打ちとなり、
討たれた戦いの場面を見せ、
今では敵ではなく、
法の友である蓮生に回向を頼んで去って行く。

武士は、実際は殺生を忌み嫌った様だ。
たたりが怖かったのだ。
それで、戦いの後の悔悟と弔いが戦勝者の務めでもあったのかも知れない。

織田信長が好んだ有名な一節
「人生五十年。下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。
ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」という謡が有名。
しかし、これは能ではなくて幸若舞という芸能にある『敦盛』の詞章である。
始めて「敦盛」の稽古の時、必至でこの詞章を捜した。
何故か、今更聞けずの気持ちであった。