東日本大震災時の咄嗟の判断から5年

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 昨日の各紙は、2011年3月11日の大震災から5年の状況をトップ記事にしています。
 当日は、上野原から高尾行きに乗って、高尾駅に丁度着いたところでした。ホームに着く直前か、直後か分かりませんが、電車の扉が開くのが一瞬遅れた記憶があります。扉が開いた後も「大きな揺れなので、車内に少し留まるよう」、案内があったと思います。子供の頃読んだ大男の物語を思いました。大男が電車を掴んで揺すっているのではないか。長い揺れが終わった後、3時頃ホームで八王子方面に行くのは何時頃になりそうか、駅員に聞きました。

 駅員「線路や信号の損傷が無いようなので、1時間以内には復旧するでしょう」
 私「大きな揺れでしたね。震源地は何処ですか」
 駅員「仙台あたりだそうです。震度は7以上と聞きました」と話してくれました。

震度7なら、復旧は遅くなりそうだ、と全く根拠なく思いました。そこで、改札口で振り替えバスの運行を聞きました。「切符を出します」と案内があり、八王子に向かいました。振り替え切符を貰ったのか覚えていません。

八王子でホテルを探しました。16時半頃でしたが、姫路に帰られるとは思いませんでした。17時過ぎ、3軒目のホテルで運良く空きがありました。私の次の人で、満室になりました。ホテルのフロントが、部屋を確保できなかった人に、ロビーで良ければ滞在OKですと案内してました。

 「親切だなあ」と思うと同時に、「大変な状況らしい」と感じました。部屋に入り、家族に泊まることを連絡し、新宿区で勤務する次女の様子を聞きました。電話が繋がらない、と。(後から聞くと、歩いて2時間かけて帰ったそうです。大会社なのに、対応は無機的です。)

 部屋に入って数回の余震の後、夕食確保にCVSに向かいました。ここでも残り数食でした。

 翌日は、新幹線開通との報で、新横浜に向かいました。ホームは人で溢れていました。待機中の電車が出たら、次の電車が次々来るので、無理に乗らないよう、注意の放送がありました。しかし、待機中の電車に乗るのに1時間も待つのだから、次に来るのがいつか、分かりません。頑張って乗り、新横浜で2時間待ち、夕方には帰ることが出来ました。

 後から聞くと、横浜線は午前中2本しか運行しなかった、と。運良く、その内の1本に乗れました。

 大した判断ではありませんが、際どく、良い判断ができました。
高尾で駅員の見通しを信じ、
八王子で都内に向かう電車に期待し、
新横浜に向かう電車を案内を信じ、待ったら、姫路に何時着いたでしょう。

 八王子のホテルのテレビで次々と惨状が報じられました。咄嗟の判断の運不運など、当時は感じることもありませんでした。