古文書保存活動を通じて「情報」の確かさの重要性を実感

昨日、Yahooニュースのトップに「ねるねるねるね」のV字回復記事が掲載されていました。
 この類の記事には必ず、商品開発時のアイデア発想とか、商品化に結びつけるまでの紆余曲折が曲がって伝えられてきました。何らかの意図が無いとすれば、情報管理がいい加減だと言うことになります。
 加古川で8年前に破綻した、稲岡工業(かつてタオル生産日本一)の古文書整理をしています。動機は、鐘淵紡績の高砂工場と深い関係があり、そして共同マーケティング会社まで作るほどの間柄だったからです。活動自体はボランティアですが、この活動のリーダーの女性の思想にもひかれています。
 稲岡家は何でも資料を残しています。各従業員の出勤、賃金伝票から、慰安会の実施要領。出征従業員の留守中の手当など、人道主義経営にも見るべきものがあります。最近は、明治29年(1896年)の稲岡家当主の「処方箋」まで見つかりました。妻が薬剤師ですので、「この処方箋存在の価値を評価したい」と意見。日本薬剤師会、兵庫薬剤師会、そして薬剤師活動の歴史研究にご熱心な北多摩薬剤師会に問い合わせ、歴史的価値が浮かび上がってきました。更に処方したのが広島博愛病院でしたので、調査しましたが、当時存在した地図まで見つかりましたが、現存しません。日本赤十字病院の前身は博愛社ですが、明治19年に赤十字と改称されてます。そして、明治29年と言えば三陸津波が起きた年でもあります。この時、稲岡家は支援金集めに奔走しました。これも実際にどの様な活動で集めたのか、資料が残っているのです。人道主義経営者のきっかけとなったかも知れない契機は、鐘淵紡績の兵庫工場支配人だった武藤山治と出会ったことでは無いか(出会ったことは確か)、との推測も成り立ちますが、契機になったかどうか不明です。これも資料がお陰で調査を進めています。この活動もブログに挙げたいと思ってます。
 翻って、クラシエは僅か30年前のことも整理できてないのでしょうか。証人も存在してるのに、聞かれたことは一度もありません。必死で聞いてくるのは、43才以下の経営者です。或いは、企業の窓口です。相手が50才だと「ねるねるねるね」の話はしませんが、該当年齢者なら聞かれなくても話します。